前回、江戸時代に使われていた「太陰暦(旧暦・陰暦)」の簡単な説明をさせていただきました。
軽く振り返っておくと……
江戸時代には月の満ち欠けを基準にした太陰暦が使われておりました。
この太陰暦では、1カ月の長さが29日の「小の月」と30日の「大の月」の2種類の月がありました。
そして、どの月が大の月で、どの月が小の月なのかは、年によって変動したため、どの月が大で、どの月が小かがわかる「大小暦」が必要とされていました。逆にいえば、これさえあれば、十分カレンダーの役に立った、というわけです。
それでは、ここで実際に、深川江戸資料館に展示されている長屋に飾られていた大小暦の写真をもう一度見てみましょう。

左側に「正」「二」「三」「四」と数字が書かれたマス目があり、
右側には宝船のような絵があります。
どう見ても、これ、一つの暦に見えますが、どうやらこれ、別々のカレンダーを一枚の紙に印刷してあるようで……

実際には、このようなものはないと考えてよいでしょう。別々のものとしてとらえてください。
そして、左側の方ですが「正」「二」が白い文字で、「三」「四」が黒い文字で書かれています。
これは「正月」「二月」…が小の月、「三月」「四月」…が大の月といったことを示しているようです。
(どちらが大で、どちらが小なのかは、実は、これだけでは判断つきかねるのですが……なんとなく黒い文字のほうが『大の月!』という感じがするので……勘です! 逆かもしれません。)

さて、江戸時代の粋な人たちは、ただの暦を作るのではなく、パッと見ではわかりづらい「謎解き」「クイズ」形式となった大小暦を作って喜んでいたようなのです。
その一つが、右側の「宝船風大小暦」なのですね。
宝船の上に和歌のようなものが書かれています。
くずし字なのでわかりづらいと思いますが、
大船の
乗
ここち
よし
春の
海
(大船の 乗り心地良し 春の海)
と書いてあるようです。
重要なのは、一番右上の「大」の文字が少々太字になっていることですね。
そしてよく見ると、宝船の帆の部分が数字の「六」に見えませんか?
その下の船の胴の部分は、向かって左から「九三正」の文字でできていますね。
さらに、正の上の部分に「十一」と「十二」の文字が少々ねじ曲がっておりますが、配置されています。
つまり、この年は、正月(一月)と三、六、九、十一、十二月が「大の月」だったようです。
ちなみに、調べてみると、安政六年(1859年)が、実際に1,3,6,9,11,12月が大の月だったようですので、この宝船の大小暦は「安政六年」のものだとわかりますね。
前年(安政五年)に日米修好通商条約が結ばれ、安政の大獄が起こり、この年には、その結果として吉田松陰などが刑死しております。翌安政七年には、吉田松陰を刑死せしめた井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されます。
政治の流れを見ると、とても激動の時代、血なまぐさい時代のように思えるのですが…… 江戸の庶民は宝船のカレンダーを作って楽しんでいたというわけですね。
(まあ、現代でも悲惨な事件が起こった年でも、バラエティー番組は放送されているわけで…… 当たり前というか、正常なことなのですが……)

ちなみに、左側のマス目に数字が書かれているほうの暦なのですが……
「閏六月」があって、「一、二月が小または大の月」で「三、四月がその逆」という年は……見当たりません。
どうも実際のものではなく、誰かが大小暦風に作成したもののようにも思えます。
(なお、安政六年には「閏六月」はありませんでしたので、前述したとおり、左右が別々の年の暦だというのは確実と思われます。)

ただ、ひょっとすると、パッと見では気づかない、なにか深い謎が隠されているのかもしれません。どなたか、このカレンダーの謎を無事、解き明かすことができましたら、コメント欄に記入いただき、ご教唆いただければ幸いです。
では長くなりましたが、3回にわたってご紹介いたしました「太陰暦」及び「大小暦」に関するコラムは、ひとまず今回で終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

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