前回、深川江戸資料館で撮影した、下記の写真を見ながら、
「これは江戸時代のカレンダーだ」というお話をさせていただきました。

これを説明するために、今回は、江戸時代の暦について、ごく簡単にご説明させていただきたいと思います。
まず、当時の暦は、今とは違って太陰暦(陰暦・旧暦)というものを使用しておりました。
この「太陰暦」というのは、月の満ち欠けを基準にしたものです。

簡単に言いますと、毎月一日から新月が始まり、徐々に月が満ちてきて、十五日(十五夜)頃に満月となります。

そこから徐々に月は欠けていき、もっとも月が細くなるところで次の月が始まるというわけです。
つまり、1カ月の始まりや終わりは月が細く、15日頃は満月と決まっているわけですね。
現在の暦は、月の満ち欠けとは無縁ですので、いつが満月かは、カレンダーを見てもわかりません。ところが、江戸時代は今日が何日かがわかれば、月齢(月の満ち欠けの様子)がわかったわけです。
どうしてこうなったかというと……

江戸時代は、現代と違って照明器具が発達していませんでした。もちろん、街灯などはないと考えてよいでしょう。現代と違って、夜は、とても暗いものでした。
そんな闇夜を照らす「月」という存在は、江戸時代にはとても大切なものでした。現代でも、街灯のない暗いところに行った時に、「月って結構明るいよなあ」なんて感じることはありますよね。
そんなわけで、江戸時代の人々にとっては、日付がわかるだけで月の明るさ(≒夜の明るさ)を知ることができる太陰暦というのは、とても便利なものだったわけです。
逆に照明や街灯などが発達した現代になると、月の明るさはほとんど日常生活に影響を及ぼさなくなってしまいましたので、「太陰暦」ではなく、「太陽暦」が使われるようになったわけです。
1872年(明治5年)、横浜に日本で初めて「ガス灯」(すなわち街灯)が設置されました。そして、その年の12月に、太陰暦が廃止され、太陽暦が使われるようになったわけです。
(江戸時代の人が現在のカレンダーを見たら、奇妙に思うでしょうね。
「なんで月の明るさと関係ないのに『1月』とか『2月』とか『月』という字が使われているんだ?」なんて思うかもしれませんね。)
さて、月の満ち欠けは29・5日周期だそうです。
そのため、江戸時代の太陰暦では1カ月が29日の月と30日の月と2種類ありました。
1カ月が29日の月を「小の月」
1カ月が30日の月を「大の月」といいます。
現代は1月が大の月、2月が小の月……と決まっておりますが、江戸時代は、年によって、どの月が大の月か小の月なのかが変化しました。
ただ、逆にいえば、大小2種類しかないわけですので、1月が「大か小か」2月が「大か小か」……それだけわかれば十分カレンダーの役割を果たしたわけです。
先ほどの写真の左側を見てください。
「正(月)」「二(月)」が白い文字で
「三(月)」「四(月)」が黒い文字で書かれていますね。
おそらく白い文字が小の月で、黒い文字が大の月なのではないでしょうか?
これさえあれば、夜の明るさもわかるし、十分カレンダーの役割は果たしたというわけですね。
これだけで十分というわけなのですが、江戸時代の人はとても洒落がわかるので、ただの「大小暦」ではなく、パッと見ではわからないような「謎解き風」の「大小暦」を作って楽しんだのだそうです。(むしろ、わかりづらくして楽しんだ、というわけですね)
その一つがこちらの右側にある宝船の「大小暦」です。
長くなってきたので、こちらの解説はまた、次回お届けしますね。
最後に当時の「太陰暦」のしくみについて、もう一言だけ……。
当時の暦は、ひと月が29日の「小の月」と30日の「大の月」の2種類しかなかった、といいましたね。
だとすると、全部が30日の大の月であったとしても、30日×12月=360日しかありません。1年は365日ですから、どんどん1年が短くなって、実際の季節とズレていってしまいます。
そこで、江戸時代には、頻繁に「閏(うるう)月」というものがもうけられました。
先ほどの深川江戸資料館の大小暦の写真の左側を見ていただくと「六(月)」と「七(月)」の間に「閏六(月)」というのが、あるのがわかりますか?
このように頻繁に(2〜3年に一回)「閏月」というのがもうけられ、1年が13カ月の年が結構あった、というのも江戸時代の暦の特徴だと思います。
では、予想より長くなってしまいましたので、「太陰暦」の説明はこのくらいにしておきまして、次回は「宝船の大小暦」の謎解きをすることにいたしましょう。
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